I'm sorry. Please forgive me. Thank you. I love you.


ブログの読者の皆様には、講演会のレポート記事が遅くなりまして、申し訳ありません。

徳島に続いて、富山、砺波、金沢の講演会&セミナーのレポートをさせていだたきますので、もうしばらくお待ちください。



さて、3月5日の愛媛四国中央市の講演会を終え、電車で高松へ移動して宿泊し、翌6日の朝、私は高速バスで高松から徳島へ向かっていました。

大麻比古神社鳥居

徳島県へ入ってしばらくすると、左手の山の麓に鮮やかな朱色の鳥居がくっきりと見えました。鳥居とその奥にある神社と、その奥にある小高い山(恐らくご神体となっているのでしょう)に呼ばれているような気がしました。

私は、四国内の移動はいつも電車です。今回は高松の彩叶さんが徳島の講演会に参加するというので、一緒にバスで移動することにしたのでした。

バスに乗らなかったら、恐らくその神社の鳥居を見ることはなかったものと思います。

その鳥居がある神社に是非参拝したいと考えていると、バスは徳島駅に到着し、徳島講演会のコーディネーターのやすはさんやあさはたさんたちの出迎えを受けました。

徳島そば蔵生そば

お昼は、「そば蔵」というお蕎麦屋さんの「生そば」をいただきました。


徳島講演会お花

そして、午後からは、フェリーの乗り着き場の沖洲マリンターミナル2F「マリンホール」で、徳島初の講演会『人生はクリーニング』を、やすはさんのコーディネートの下、43名の参加者を得て開催されたのでした。

43という数字は「天使とアセンデッド・マスターが、あなたを助けてくれています。静かに瞑想をして、彼らとつながる時間を持ちましょう。すべてうまくいくと、安心させてくれる彼らの存在を感じて心を落ち着けましょう」という意味です。【ドリーン・パーチュー『エンジェル・ナンバー実践編』より】



ホ・オポノポノの体験を語る講演会はこれで最終となり、まさに“完了”です。

徳島講演会

これまでに国内・海外57か所、延べ5000人もの方がこの講演会に参加してくれました。
全国のコーディネーターのみなさん、ボランティアのみなさん、参加者のみなさん、本当にありがとうございました!!

徳島講演会サイン会

そして、講演会『人生はクリーニング!!』は今後は開催する予定はありませんが、この講演内容に、さらに様々なエピソードを加えて、本としてまとめたものが『とんとんのホ・オポノポノ体験記(仮題)』として、5月中旬に発売される予定となっています。

どうかお楽しみに・・・


徳島講演会懇親会

講演会開催後、近くの鳥料理のお店で懇親会を開催し、楽しいひとときを過ごしました。

通された部屋の隣にキッズルームがあり、8人ぐらいいた子供たちはそちらで大暴れ。

そう言えば、沖洲マリンターミナルの1階にも、なぜかキッズルームがあり、子供たちが好きそうなビデオがあって、講演会の間、みんなそれを観ていたそうです。お母さんたちも子供たちもどちらも大満足の完璧な会場でした。

もうひとつ、面白いというか、いいなあと思ったことは、やすはさんはいつもお子さんを3人連れて歩いているのですが、そのうちの1人がいつも近所のお子さんなのです。ずっとお子さんが3人いるのかと思っていたのですが、そうではなくて、近所のお子さんをよく預かるからなのだそうです。

最初私はびっくりしたのですが、どうも近所のお子さんを預かるのが徳島では当たり前のようで、昔ながらの日本的な伝統がある町なんだなあ・・・と、今ではとても感心しています。



さて、翌日の7日は、あさはたさんといくよさんの案内で、徳島の神社巡り。こんなにたくさんの神社を参拝したのは初めてかもしれません。(あまりに多く参拝したので、ふたつほど、割愛をさせていただいております)

まずは、河合家とおなじ平家ゆかりの場所ということで、壇の大クスという巨木を参拝することにいたしました。その木の根元で平家の落ち武者が非業の死を遂げたというのです。

徳島壇の大クス

ところが、よくよく調べてみると、実際の話は異なります。

※壇の大クス
平安時代末期・後白河法皇に仕えた平康頼(たいらのやすより)が植えたと伝えられており、小道を降りると「康頼神社」があります。平康頼は安元3年(1177年)、京都鹿ケ谷で藤原成親・俊寛らと平清盛討滅の謀議に加わり、これが漏れて鬼界島に流されたが恩赦により帰京し、その後源頼朝の推挙により阿波国で官職に就き、善政を敷いたとされている。



ということで、その平和な場所を後にして、彩叶さんおススメの八倉比売神社へ向かいます。

彩叶さんが言うには「八倉比売神社に卑弥呼の墓がある」とのですが、「徳島邪馬台国説」というのも聞いたことがなかったので、正直言って「ふーーん」という感じだった(ごめんなさい!)のですが、東京のエグゼクティブコースの参加者の女性が「前世で卑弥呼だった記憶がある」と突然言い出すので、これは「参拝せよ」と言うサインなのかと思い、案内役のあさはたさんやいくよさんもあまり知らないような八倉比売神社へ行くことにしたのです。

八倉比売神社鳥居

一の鳥居の場所に車をおいて、本殿までの約1キロの道のりを歩くことにいたしました。地方は車社会なので都会のように歩くことには慣れていないらしく、「本気ですか?」という感じでしたが、私に付き合って歩いてくれました。大自然に囲まれた気持ちのいい場所で、周囲にたくさんの古墳や遺跡があり、阿波史跡公園として公開されており、「徳島邪馬台国説」も強ち嘘ではないかもしれないと思えて来ました。

八倉比売神社本殿

そして、ついに山の中腹にある八倉比売神社の本殿に到着することができました。
祝詞を奏上して参拝をした後に、卑弥呼の墓を探します。

本殿の裏の山が気になるので、そちらをさらに登って行きます。
すると山の頂上に不思議な場所を発見いたしました。

八倉比売神社卑弥呼の墓

五角形の形に石組の祭壇があるのです。

その前に立ち、手を合わせて祝詞を奏上しようとすると、突然突風が吹き始めました。そよ風という類のものではありません。周囲を木々に囲まれた場所なのに不思議です。あさはたさんが言うには、「右・左・前の三方向から風が吹きつけた」「河合さんが手を合わすと同時に風が吹き出し、手をおろしたら、風が止まった」と言うのです。

神社に参拝して、風が吹くことはよくあるのですが、これほど強い風は初めてです。
しかも、森の中で・・・。

※八倉比売神社の卑弥呼の墓について
八倉比売神社社殿裏手、奧の院と呼ばれる一角には、五角形の石組みの祭壇があり、一説には卑弥呼の墓と云われる。
江戸時代までは、この一帯から大量の丹が土にしみ出していた。魏志倭人伝には、「朱」を用いる習憤についての記述があるが、この年代と一致する水銀朱鉱山の跡は、日本では阿南市の若杉山遺跡しかない。
一帯は約200基の古墳が集中する神域であり、その中でも最大規模の古墳上にこの磐座が築かれ、同じ古墳の一角を整地して八倉比売神社社殿が建てられている。
この磐座が築かれる丸みを帯びた丘状の盛り上がりを横から眺めると、巨大な円墳、または前方後円墳の後円部であることが一目でわかる。


これには、後日談があります。
翌日「前世で卑弥呼だった記憶がある」と言っていた東京エグゼクティブコースの参加者の女性から「すごいブレークスルーが起きて、卑弥呼の時の過去生のクリーニングが凄くできたんです。とんとんさんのおかげです」と嬉しそうな電話があったのです。


さて、とても不思議な八倉比売神社を後にして、あさはたさんの依頼で、朝鮮出兵時に敵1000人の鼻を削いで持ち帰って埋めたとされる川島城に立ち寄りましたが、のどかなお城でした。(どなたかが浄化されたのでしょうか)

川島城朝鮮女の墓

そして、偶然からそれとは別に、朝鮮出兵時に日本に侍女として連れて来られた「朝鮮女の墓」というものを発見して、静かにクリーニングをさせていただきました。

どうもこちらの女性に呼ばれたようです。


そして、ようやくお昼です。

徳島ラーメン東大

徳島ラーメンで、今美味しいと言われている「ラーメン東大」へ行きました。「ラーメン東大」の屋号は、ラーメン界の頂点を目指すために付けた屋号とのことです。


ここで、いくよさんと別れて、あさはたさんと2人で神社巡りを続けることになりました。

次は、当初の予定になかった阿波神社へ行くことにいたしました。

実は、前日の懇親会で私が見た朱色の大きな鳥居は、徳島の一宮の大麻比古神社ということがわかりました。大麻比古神社についてインターネットで調べているうちに、そのすぐ近くに阿波神社という神社があることに気づきました。

調べてみると、1231年に徳島で亡くなった悲劇の天皇である土御門天皇を祭った神社であるそうです。

「徳島で亡くなった天皇がいる」

私は、この阿波神社がとても気になり、どうしても参拝をしたくなったのです。

大麻比古神社に行くなら、そのご神体の大麻山に登山して奥宮を参拝したいと思っていたのですが、四国へ向かう前日に右足の裏を切ってしまい、5~6時間歩くのが難しいと判断いたしました。

ならば、時間があるので、阿波神社へ行きたい、という強烈な思いが湧いて来たのです。

土御門天皇

※土御門天皇
建久9年1月11日(1198年2月18日)、父後鳥羽天皇の譲位により3歳で即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)異母弟の順徳天皇に譲位した。承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。大変温和で、情が深く、争いごとは好まない性格であったという。一説には日蓮宗の開祖日蓮は、この土御門天皇の皇胤であると言われている。




阿波神社鳥居

さて、あさはたさんと二人で、鳴門市へ向かい、阿波神社に到着することができました。

玉砂利の気持ちのいい、参道を歩いていると、大きな神門があります。

阿波神社神門

神門をくぐると、そこには本殿がありました。

阿波神社本殿

はっとするほど、気高く、清らかで、静寂な気が流れます。
それでいてどこかもの哀しい感じがするのです。

神社に参拝して、鳥肌が立つということは、よくありますが、これほど身体が震えるような感覚を覚えたのは初めてのことでした。

そして、とても懐かしいのです。
とうとう帰って来た・・・そんな感じがするのです。

厳かな気持ちで祝詞を奏上していると、心地よい風が吹いて来ます。
心が洗われるような、とても気持ちのよい風です。

あさはたさんも感動しています。

あさはたさんが運転する車に乗り込むと、何かこの光景が以前にもあったような気がいたしました。私は、滅多には車の後ろに座ることはないのですが、今回はおとなしく後ろの座席に座らせていただきました。そして、あさはたさんの少し慌てるところが、昔もそうだったなあ・・・とふと思ったのです。そして、思わず、微笑んでしまいました。


さて、いよいよ、最後の神社です。仕事の都合で、朝から神社巡りをすることができなかったやすはさんが大麻比古神社の参拝に合流するとのことでした。

私だけ一人一の鳥居であさはたさんに降ろしてもらい、参道を歩かせていただきました。やすはさんとあさはたさんは二の鳥居の横の大駐車場に車を止めて、そこから私と合流して参道を歩きます。やすはさんのお子さん2人も一緒です。

大麻比古神社ご神木

ご神木の大楠を過ぎて、しばらく行くと本殿となります。

大麻比古神社本殿

本殿で、祝詞を奏上して参拝し、続いて裏手にある奥宮遥拝所へ行き、ご神体である大麻山を参拝させていただきました。

すると、奥宮遥拝所のすぐそばに「ドイツ橋」と「メガネ橋」というものがあることに気がつきました。
どちらも第一次世界大戦で、日本軍の捕虜となったドイツ兵が造ったものだそうです。

私は、ドイツとのご縁がどうも深いようなので、これはクリーニングのサインだと思いました。

新婚旅行もドイツのロマンチック街道でしたし、子供のときのよく作っていたプラモデルはドイツの戦車でした。ここのところ、『ドイツ』という言葉が不思議なくらいよく出て来ます。

大麻比古神社ドイツ橋
※ドイツ橋
青島において第一次世界大戦で、日本軍の捕虜となったドイツ兵の一部は、大麻比古神社の約2km南にあった板東捕虜収容所に収監されていた。当時、大麻比古神社境内はドイツ人捕虜達の散策に利用されていたが、板東捕虜収容所における捕虜への対応が人道的かつ寛大で友好的であり、また地域住民との交流も積極的に行われたことから、帰国する際に記念として築造したものである


大麻比古神社メガネ橋
メガネ橋


本当に、徳島での濃い2日間となりました。

世の中に起きることに偶然はありません。

阿波神社へと私を導くために、大麻比古神社の朱色の鳥居を高速バスから見たのだと気がつきました。
いつも電車にしか乗らない私がバスに乗ったのも、足の裏を切って大麻山の登山を諦めたのも偶然ではないのです。

そして、四国で唯一講演会をしていなかった徳島県で、ホ・オポノポノの体験談を語る最後の講演会を開催したのは、何か意味のあることだったのではないかと思うのです。



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2011.04.04 / Top↑
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